一昨日から太ももの裏側の贅肉を落とすためにスクワットを追加した。
太ももの前面にはなかなかの負荷がかけられるのだが、自分が必要としている太ももの裏側にうまく負荷をかけることができない。
筋トレをするときは、鍛えたい筋肉を意識しながらするとよく鍛えられる、というのは筋トレ界の一般常識だが(筋トレ界ってなんだ)
意識をしてもイマイチ使ってる感が得られにくく、納得できない。
他に鍛える方法はないものかと考えを巡らせていたら、あるトレーニングを思い出した。
それは、後ろ蹴り。
・・・この言葉だけだと、格闘技的(とりわけ空手感がすごそう)なイメージをお持ちになる方が多そうだが、そんなアグレッシヴなものではない。
その場に直立して、その片足をそのまま後ろにスッと上げるだけである。
これをすると、如実に太ももの裏側の筋肉が反応を見せる。
なるほど、これは実感の得られるいいトレーニングではないか。
これも新しく追加することにしようかな。
しかし、本当に思い出してばっかりだが、それはつまり情報ばかり集めていて実践していない、ただの頭でっかちになっていたということだ。
知識とは「聞かれたら答えられること」。例えば、「自転車って何?」と聞かれたら「アナログな二輪車」と返答したり、
しかし、それだけでは自転車に乗れることにはならない。
仕組みを誰よりも調べて覚えたところで、さぁ乗ってみろと言われたらすぐにズッコケるのは誰の目にも明らかだろう。
知識を覚えたら、次はそれを「技術」に昇華させる必要があるのだ。
技術とは、すなわち「やってみてと言われてできること」。先ほどの自転車を例に挙げるなら「自転車乗れますか?」と聞かれて「乗る」ことだ。
知っていることばかり増やし、それで「できた」気になっていることが自分は大変に多い。
「知る」という行為は心地よいもので、不思議の国のアリスばりに探求心の強い自分は、とりわけその知的好奇心を満たしたがる。
しかし、それは「できる」ようになって初めて意味を成す。自分の人生に影響を及ぼす。
知っているだけではただの自己満足であり、誰かに聞かれない限りそれは頭の中にしまったままとなる。
その知識は使わなければ死ぬまでそのままなわけで、もはやそれは他の人からすれば「知らない」ことと全く同じなのだ。
私は、それを良しとしない。なぜなら自分は、人との関わりが自分の人生にとって大切だと感じている。
だから、知識をしっかり技術になるまで訓練し、「行動」にまで落とし込む。
プリケツを目指したおかげで、そんなことを痛感させられた。
プリケツも目指してみるものだ。
・ストレッチ
・プランク
・横プランク
・後ろプランク
・腕立て伏せ
・スクワット
・後ろ蹴り上げ
プリケツになるまで、あと82日。